ドラクエユアストーリー雑感 -よく訓練された観客が故の悲劇-
原作付きの作品を監督するのは、「プロメア」の記事で載せたように難しい。
2時間でまとめるためにどれを削り、どれを強調するのか、どうすれば視聴者を満足できるためにネタを仕掛けることができるのか、古参のファン、新規のファンを満足させるためどのような脚本にするのか。
そして、この作品を監督する自分らしさをどこに付け加えるべきなのか
原作をそのまま映画化するというのは極端な話ではあるが誰でもできる。
あらかじめ筋書きが建てられているため、印象に残ったシーンを切り張りすればよいのだ。
しかし、それでは映画監督としては面白くない、そこで自分自身でしか魅せられないエッセンスを仕込む。
宮崎駿はルパンで成功し、原恵一監督はクレヨンしんちゃんで成功した。
しかし、これは賭けに近い、エッセンスと原作がミスマッチしているとクソ映画へと堕ちてしまう、鋼の錬金術師やテラフォーマーズが良い例だろうか。
では山崎貴監督はどうだったか?ドラえもんの3D版で監督を務め実績はある
・・・残念であるが彼は賭けに失敗した
理由は簡単である、ドラクエという映画に対して何を期待していたのか、どのような客が見るのか想像していなかったのである。
スクエアエニックスはそれを予想していたはずである、だからこそ悔しい思いがあるのだ。
もう少し何とかならんかったのか・・・
(ネタバレをしないとこれは語れぬ)
誰やねん!
「ドラゴンクエストユアストーリー」はドラクエVをベースにした物語ではあるが、まず問題なのはラストだろう。
長く苦しい戦いの末、息子のアルスと協力してゲマを打ち倒した主人公リュカ、しかしゲマは最後の力を振り絞りミルドラースを復活させようとする。
しかし、天空の剣を魔界のはざまに投げ込むことでミルドラースの復活は止まった。
はずだった。
突然、時が止まり、ミルドラースではない何かが出現
私「誰やねん!」
そのなにかは「ウイルスだ」といいレンダリング設定をいじり、余計なポリゴンを減らし、挙句の果てには重力設定を止めた
私「何やねん!」
そしてウイルスは言う「お前はドラクエVというVRを楽しんでいる一般人なのだ」と
私「何じゃそりゃ!」
そしてウイルスはリュカそのものの存在を消そうとする
私「なんで?目的は!」
消えゆくリュカ、しかし突然スライムが飛び出し、突然しゃべり、自分はワクチンだと言う
私「誰やねん!」
ウイルスはワクチンによって滅ぼされ、すべてが元に戻っていく、まるでそれがなかったかのように。
そしてエンドロール。
私「どゆこと・・・?」
以上が私の抱いた感想である、見終わった後は動機、息切れが止まらなかった、別の意味で初体験だった。
Twitterをすぐに見たが、みな同じ感想であったのは予想していたが、その中でも「意外だけどこの展開はあり」という人も見かけた。
憤りはあったが、この展開に納得する気持ちはわからないわけではない。
あのままミルドラースと戦いハイ終わりであったのなら、陳腐な作品になっていただろう、山崎監督にする意味がないじゃないかと
であれば、あのラストの展開は良いのではないかというと、私はそれを全力で否定する、全力だ。
こういった展開は俗にいう「メタネタ」である。
この「メタネタ」を生かすためにはかなり準備が必要だ、山崎監督はそれを怠った、いやこの観客を甘く見ていた。
メタネタという諸刃の剣
王道といのは全員が予測できるだろうという話だ、ラブストーリであれば主人公とヒロインはくっつくのは予想できる、冒険譚であれば主人公が大きく成長したり、大きな財産を得るのは予想できる。
あのラストに関しては「メタネタ」を利用したラストである、物語の根幹を一気に崩していき、観客を驚かせる手法である。
好例としては映画のメタネタを利用した「カメラを止めるな!」だろうか
「メタネタ」を効果的に生かすためには、その演出を匂わす「伏線」が必要である。
カメラを止めるな!であればホラー映画なのにあえて古臭くて安っぽい演出をして、観客に「普通の映画なのに何か違うな」、「劇中劇なのかな」という違和感を持たせる。
そしてその安っぽい演出が実は伏線で、物語の本筋に深みを与え、この映画の価値を高めていき一大ブームへと変貌した
よく訓練された観客が故の悲劇
実はユアストーリーも同じように伏線を仕込んでいた。
スライムがどこからともなく突然現れる。
夢の世界の演出でメッセージテキストが出る。
しかし、私はそれが伏線だと気付くことができなかった
なぜか?
その演出はゲームに慣れている人にとってはそれが当たり前の表現だからである。
実際のゲームでもモンスターは突然パッと出てくる。
また夢のシーンになってしまうと何でもありになってしまう、夢なんだから。
大ぴらに匂わせたのはマスタードラゴンとマーサだけだ、しかし、マーサもマスタードラゴンもプログラムの一部だ、スタッフが化けているNPCなら納得がいくがこれは合点がいかない。
それであれば最初からマーサとマスタードラゴンが出ていればもしかしたら普通とは違うのではないかと匂わすことが出来たはずだ。
そしてもう一つ伏線に気づかなかった原因である、それは小ネタだ。
この映画、意外と小ネタに関してはあっさりしている、勇者ヨシヒコと比べれば「無駄がない」のである。
あそこに、歴代の主人公がいたり、レベルアップの音が仕込んだり、メッセージボードがあれば観客が「これはリアルな世界ではなくゲーム上の世界じゃないか?」と気づいたはずである。
残念ながら山崎監督は我々ゲーム好きな観客を甘くみてしまった。
監督にとってはそれは仕込みのつもりだが、ゲームを親しんでいる人にとっては伏線と気づくことができなかったのである。
しかも、3Dのクオリティーが高く読者はまるでドラクエ5の世界に入っているように感じてしまった、そして、伏線も気づかないためゲーム好きな観客は王道的な展開を期待してしまったのである。
クオリティを高めたが故に読者が感情移入しすぎてしまったのだ!
山崎監督側としては「気付け観客よ!ゲームの世界なんだ」
観客側としては「気付け山崎監督よ!なぜ王道から外したのだ」
監督と観客とのなんと哀しいすれ違いか!
これは版権を持つ会社の落度だ!
あれを称賛できるのはドラクエを全く知らないアホか、隠された伏線を見つけ、「これはゲームの世界だ」と気づいたとても頭の良い人間だと思う。
しかし観客にアホはいない、なぜならドラクエを知っている人が見る映画なのだから。
RPGをよく理解していたり、下手にドラクエの世界に浸っていると最悪の展開に感じてしまうだろう。
監督に悪気はない
ただいい映画を作ろうと努力しただけである
悪いのは版権を管理するスクエニ側であろう。
今回の映画に関しては客層は間違いなくRPGが好きな、ドラクエが好きな客層がメインなはずである、なぜスクエニは見抜けなかったんだろうか!
ゲームを何年も作っているのならわかるはずではないのか?
ドラクエに対して愛があるのであればラストの展開に異論を唱えるべきである。
ドラクエを愛してる山田孝之が試写会の時に体調不良なのが忍びない。
原作付き作品に関してリスペクトが必要だ、しかし、映画監督であれば爪跡は残したい。
しかし爪が鋭すぎれば作品を傷付けてしまうのである。
これからの原作付き映画は爪を研ぐ役割も必要なのである。
その役割を持つのは版権を持つ会社でなければならない。
山崎監督は次の作品としてルパンを選んだ、果たしてモンキーパンチがいない今、誰が彼の爪を研ぐことが出来るのだろうか?
次元のデザインを見て思うこの頃である。