映像研9話がいかにして衝撃的だったのか語る ~監督が作品を喰った瞬間を見た~
2020年冬季のアニメで一番面白かったのは「映像研には手を出すな」だった
湯浅監督にハマったきっかけ四畳半神話大系からだ
アジカンの軽快なOPもつい買ってしまった。
湯浅監督のアニメの魅力は、「絵を動かす」という単純ながらも本質的な所にある。
よくあるアニメだと、流行りの絵柄を採用してカッコイイ、かわいいキャラをかわいく動かすようにしている。
水着回、温泉回があったり、パンチラがあったり、ちょっと百合っぽい表現があったりする。
対して、湯浅監督は原作そのままの絵柄、原作そのままのキャラで動かすようにしている。
まるで素材の味を殺さずに料理してくれる、和の鉄人みたいな監督である。
そんな監督が手掛けた「映像研には手を出すな」が面白くないわけではなく、映像研の原作版まで買ってしまった。
そして原作版と見比べるとややオリジナル要素を入れていたりしてることに気づく。
設計がや背景をみると原作以上に細かく背景が入っているのだが違和感なく見れるのである。
特に映像研が発表するアニメパートは原作だと6ページ分なのだがアニメ版だと数分にも長くなるので、もはや「湯浅監督が作った映像研に手を出すな」を見てる気分だった。
その中で一番衝撃的だったのが9話なのである。
(ネタバレあり)
9話は金森氏の過去話、チビ森のシーンである。
原作だと3巻27話に当たる。
アニメ版だと、金森氏が働いていた酒屋の成り立ちというオリジナルシーンもあったが、何よりも衝撃的なのが演出方法だ。
過去の回想シーンの表現方法はセオリーが存在する。
漫画であれば黒いフチにする。
アニメであれば周りを白くするマスク処理をする。
これは「頭の中で思い出しているから現実とは違うのよ」というのを記号化している。
記号化することで制作する労力を減らすことができるし、視聴者の方もわかりやすく認識することができる。
映像研の原作版だとそこからさらに表現が進んでいて、過去の世界に今の人間が介在していて、思い出しながら話を進めていくという表現になっている。
これに対してアニメ版だとうっすらぼやけた水彩画タッチにしている。
二回言うがわざわざ、金森氏の回想シーンなのに原作版と同じにせず手間のかかる水彩画タッチに変更しているのだ。
これは原作の絵柄を原作通りに表現することとは真っ向から反抗することだ。
だがこれが驚くほどに回想シーンに馴染んでいるのである。
記憶というのは昔であれば昔であるほどぼやけている物である。
自分が幼稚園の頃を思い出すと記憶がかなり断片的に見えてしまうし何となくというイメージが多い
この「何となく」の感覚をこのぼやけた水彩画タッチで表現しているのである。
そのため、まだ記憶がハッキリしている中学生の頃の金森氏のシーンは水彩画の表現は使用していない。
水彩画タッチの表現技法は昔から存在する。
水彩画タッチを全面的に採用したのは高畑勲監督の「ホーホケキョとなりの山田君」
昔この作品のメイキング画像を見たことがある。
水彩画タッチの場合だと線を閉じないので着色しようとするとき必ずはみ出してしまう、その調整で時間と制作費がかかったことを思い出した。
この技術は「かぐや姫の物語」に引き継がれた。
しかし、高畑勲が没した現在、そのような表現を取り扱うアニメを見なくなった。
映像研では水彩画タッチを浅草氏の想像の世界という理由で使っているが、これはあくまでマンガの絵柄を再現するために使っているだけだった。
だがこの水彩画タッチを金森氏の回想シーンに使うとどうだ!こんなにも臨場感が溢れるシーンになったではないか!
温故知新!
高畑勲が遺した技術が蘇った気分になった、このシーンが成り立った瞬間、アニメの表現が一歩進化した瞬間である。
同時に、原作とは違うタッチ、原作とは意図せぬ部分で「映像研には手を出すな」が成り立っている。
監督が作品を喰った瞬間でもある。
やはり一流の監督というのは本当に原作を喰ってしまうんだなと感心してしまったのである。